野見宿禰(のみのすくね)とは?

 

『日本書紀』垂仁天皇の項に書かれています。

 

簡単に述べますとこうなります。

 

第11代天皇・垂仁天皇の時代の人物で、ヤマト王権に出雲国から呼び出され、日本で初めて相撲をとり、勝利し、相撲の元祖、神様と呼ばれるようになった人物です。

 

また、垂仁天皇の皇后が亡くなられた際に、野見宿禰は、仕えていた者が殉死する代わりに、墓の周りに埴輪(はにわ)を立て置きすることを進言しました。

 

そのことから、埴輪などを作る土師(はじ)部の長に指名され、天皇の葬儀をつかさどる土師連(はじのむらじ)の祖となりました。

 

出雲国の本貫地(出身地)はどこか?

 

出雲国から大和に出てきたということなので、出雲国のどこかになんらかの伝承があるはずです。

 

1)安来市の扇山

 

有名な足立美術館のすぐ近くの小さな山です。その山には、扇山1号墳という方墳があるそうです。

 

野見の宿禰の屋敷

 

能義郡飯梨村大字植田の扇山は、野見の宿禰が角力の跡と伝え、其附近には、宿禰の屋敷跡と称する所が残って居る。(『島根県口碑伝説集』 島根県教育会 編  昭和2年より)

 

扇山に行ってみました、野見宿禰に関係したものは何も残されていませんでした。

 

 

2)安来市 切川神社

 

切川神社 島根県安来市切川町1050

 

 

安来市の切川神社の由緒の中に中に野見宿禰のことが書かれていました。

 

もと能美神社と称し祭神は野見宿禰命菅原道真公の二神なり。(『神国島根』島根県神社庁 発行 昭和56年4月29日発行)

※ 菅原氏は、野見宿禰を祖とする土師氏の末裔です。

 

此の辺地名を天神原と申して野見宿禰命の霊所と言い伝う。昔御領地にて能義郡と言う説古書に見えたり。(『神国島根』島根県神社庁 発行 昭和56年4月29日発行)

 

切川神社(きりかわじんじゃ) 島根県安来市切川町1150番 

 

「御領地にて能義郡と言う説」とありますが、平安時代中期の辞書『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)には、「能美」(のみ)郡とあります。

 

通説では、「能義」と書く所を、字が似ているので写し間違えたという説が代々言われていますが、野見宿禰の領地にあやかって「能美郡」としたのなら、あながち、写し間違いというわけではありません。

 

 

能美郡

 

  舎代 安來 楯縫 口縫 屋代

 

  山國 母理 野城 賀茂 神戸

 

野城(のしろ、ぬしろ)大神に由来する郷名の「野城」が「のき」「のぎ」に派生して、「能義」が発生したという説が主流ですが、そうならば、郷名と郡名が、「野城」で同じなはずです。そこがあえて違う漢字を当てているので、切川神社の由緒に書かれていることにもひとつの理を感じます。

 

切川神社は吉田川のすぐ近くですが、伝承地の二つとも、飯梨川の流域です。飯梨川流域には、四隅突出型墳丘墓の墳墓が沢山あり、古墳時代前期の大型方墳のある荒島古墳群もあります。

 

弥生時代の終わりから、古墳時代の前半には、出雲国ではもっとも栄えた場所であったと思われます。そこが、野見宿禰の本貫地であったという伝承も自然です。

 

3)飯石郡飯南町の野見

 

野見野の表示板 島根県飯南町上赤名呑谷

 

 

『出雲国風土記』(733年)には、野見宿禰のことは一言も書かれていないですが、「野見」という地名が飯石郡に登場します。

 

野見 木見 石次の 三野 並びに、郡家の南西四十里なり。紫草あり。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲国風土記』 今井出版)

 

奈良時代には、野見という野(木が少ない山)があったそうです。

 

ここには、野見宿禰の墓と伝わる「糘塚古墳(すくもづかこふん)」があります。

 

糘塚古墳

 

 

ただ7世紀頃の円墳ということなので、時代としては新しく子孫の墓なのかもしれません。

 

野見宿禰の活躍したヤマト

 

三輪山

 

 

野見宿禰が活躍した場所は、垂仁天皇の宮所(纒向珠城宮)があったとされる三輪山の北麓です。

 

野見宿禰命が初めて天覧相撲をしたと伝わる場所

 

そこの近くには、相撲の祖を記念して、野見宿禰を祭神とする相撲神社が造られています。

 

相撲神社 奈良県桜井市穴師475

 

 

ここの場所である「カタヤケシ」で、日本最初の天覧相撲がされていたと、説明版が書かれていました。

 

カタヤケシの由緒

 

今を去る上古約2000年前垂仁天皇七年七月乙亥(七日)大兵主神社神域内小字カタヤケシにおきまして野見宿禰(のみのすくね)、当麻蹶速(たいまのけはや)による日本最初の勅命天覧相撲が催されました。

 

これが世界に誇るわが国国技相撲の曙光であります。

 

爾来相撲が国技として国家大本の行事とされ、悠々の今日に至っています。

 

日本書紀に「野見宿禰はすなわち都にとどまりて仕へまつる」とあり当地に屋敷を賜り古代国家草創期における大和朝廷国土開拓の推進者として貢献されました。

 

その偉大な特を偲びここカタヤケシを日本民族の象徴的聖地として世に知られています。

 

※カタヤケシの地名の語源は、大和の伝説によると「かた屋敷」から来たと云われています。形屋(かたや)は、相撲場内を指す古語で、ケシは、状態を表わす接尾語だそうです。

 

三輪山の麓 出雲地区

 

十二柱神社(じゅうにはしらじんじゃ) 奈良県桜井市出雲650

 

 

三輪山の南東の麓に出雲の地名があります。そこの神社が十二柱神社です。

 

ちなみに、いわゆる出雲神(大国主命など)を祭っているわけではありません。天皇家の祖先の神代7代、地神5代の神を祭っています。

 

1964年の古老の伝承が掲示されていました。

 

大昔は、神殿がなく、「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700メートルの嶺の上にあった古代に出雲集落地)の磐座を拝んだ。

 

明治の初めごろまで、年に一度、全村民が「ダンノダイラ」登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。一日中、相撲をしたり遊んだり、食べたりした(出雲ムラ伝説)

 

神社の場所は、第25代武烈天皇 泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)伝承地でもあります。

 

狛犬が独特です。力士たちが、狛犬を4人で担ぎ上げています。

 

 

ここには、野見宿禰塚から移動させた鎌倉時代の五輪塔があります。

 

野見宿禰塚は明治16年(1883年)にあったようです。

 

野見宿禰塚の五輪塔

 

 

現在は野見宿禰塚は無くなって、田んぼの中にひっそりと、記念碑があるのみです。

 

 

野見宿禰は播磨国で亡くなった。【播磨国風土記】

 

一説ですが、野見宿禰は出雲国出身ではなく、奈良の出雲の里出身だという話もあります。

 

しかし、8世紀の前半ごろの『播磨国風土記』の記事を見ますと、出雲国と大和国を行き来していたと思えます。

 

日下部の里。人の姓によって名とする。土は中の中。

 

立野(たつの)。立野と名づけた理由は、昔、土師弩美(のみ)宿禰が出雲の国に行き通い、日下部の野で宿り、病気を患って死んだ。

 

その時、出雲の国の人がやってきて並び立ち、人々は川の礫石(さざれいし)を取り上げて運び渡して、墓の山を作った。

 

だから、立野と名づけた。その墓屋(はかや)を名づけて出雲の墓屋とした。 (中村啓信 監修・訳注 『風土記 上』 角川文庫)

 

龍野の野見宿禰神社  兵庫県たつの市龍野町北龍野

 

 

横穴式石室をもつ径約20メートルの円墳の上に祠が建てられています。

 

この古墳が、野見宿禰の墓とされたのは、明治時代になってからです。

 

横穴式石室なら、古墳時代の後期であり、時代的には新しく、実際には野見宿禰の墓ではないと思われます。

 

他の候補として、日山(ひやま)の宮山にある狐塚、揖西町土師の奥田池にある鶏塚、相生市那波野町にある宿禰塚古墳などがあるようです。

 

野見宿禰の墓を祭る神社

 

全国に野見宿禰の墓を祭る神社はいくつかあります。土師氏の祖であり相撲の元祖なので、多いのかもしれません。

 

主なものを紹介します。

 

島根県 菅原天満宮

 

菅原天満宮 野見宿禰の墓 島根県松江市宍道町上来待1834

 

 

学問の神様で有名な菅原道真公の誕生の地との伝承をもつ神社です。

 

菅原道真公の父である菅原是善卿が出雲の国庁に御在任の時、菅原家の祖先である野見宿祢の墓に参拝するためこの菅原の里に訪ねられました。

 

その際案内した女性を気に入られて寵愛され、その間に生まれた御子が道真公であるとのことです。

 

ここのお墓は、播磨国立野で亡くなった野見宿禰の分骨されたものを持ち帰り埋めたと云われています。

 

鳥取県 大野見宿禰命神社

 

本殿の左後ろに野見宿禰命のお墓があります。

 

大野見宿禰命神社の野見宿禰の墓 鳥取県鳥取市徳尾80

 

 

立札には、「昭和九年調査 御祭神野見宿禰命 御墳墓 社務所」と書かれています。

 

「本殿の北西方の上段に円墳があること、東方下段に副葬遺跡がある」 (『全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年』)とありますが、副葬遺跡はわかりませんでした。

 

近くに天穂日命神社、阿太賀都健御熊命神社、天日名鳥命神社という天穂日命に関係した式内社が集まっています。

 

野見宿禰命が天穂日命14世の孫と言われているので、近隣の神社を含めて、天穂日命一族と書かれがちですが、本当に一族なのか疑問もあります。

 

野見宿禰命の系譜の特徴

 

平安時代の『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)の分析による歴史家の解釈です。

 

土師氏族は、「飯入根命」を祖とする系統

 

鳥越憲三郎『出雲神話の誕生』(講談社文庫)では、出雲氏族、野見宿禰を祖とする氏族をABCDの4種類に分類し、その違いを考察しています。

 

野見宿禰を祖とする土師氏族は、遠祖・天穂日命を祖とする点は、出雲国造家とは同じですが、

 

出雲国造家が天夷鳥命を祖とするのと違い、出雲神宝問題に描かれた飯入根命(いいりねのみこと)を祖とする特徴があります。詳しくは ⇒ 出雲振根命と神宝問題

 

以下が、『出雲神話の誕生』の引用です。

 

A 出雲宿禰。  天穂日命の子、天夷鳥命の後なり(左京神別)。

 

  出 雲 臣。  天穂日命の子、天日名鳥命の後なり(山城国神別)。

 

B 出 雲 臣。  天穂日命の五世の孫、久志和都命の後なり(左京神別)。

 

C 出 雲 臣。  天穂日命の十二世の孫、鵜濡渟の後なり(右京神別)。

 

  出 雲 臣。  天穂日命の十二世の孫、宇賀都久野命の後なり(河内国神別)。

 

  神 門 臣。  天穂日命の十二世の孫、鵜濡渟の後なり(右京神別)。     

 

D 土師連。   天穂日命の十二世の孫、飯入根命の後なり(摂津国神別)。

 

  土師宿禰。  天穂日命の十二世の孫、可美飯入根命の後なり(右京神別)。

 

  土師宿禰。  秋篠朝臣と同じき祖、天穂日命の十二世の孫、

 

         可美乾飯入根命の後なり(大和国神別)。

 

  菅原朝臣。  土師朝臣と同じき祖、乾飯入根命の七世の孫、大保度連の後なり(右京神別)。

 

  秋篠朝臣。  上に同じ。

 

  大枝朝臣。  上に同じ。

 

  凡河内忌寸。 天穂日命の十二世の孫、飯入根命の後なり(摂津国神別)。 

 

E 土師宿禰。  天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(山城国神別)。

 

  土師宿禰。  秋篠朝臣と同じき祖、天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(和泉国神別)。

 

  土師連。   上に同じ。

 

  石津連。   天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(和泉国神別)。

 

『姓氏録』では以上の五つに分類できる。この中で野見宿禰の子孫であるD・Eが、祖先を野見宿禰と記すか、あるいは飯入根としていることは注意すべきである。国造家の出雲臣・出雲宿禰、また直接分かれた神門臣が、天夷鳥命か鵜濡渟の後を祖先とするに対し、その系統を異にしていることがわかる。

 

この野見宿禰のことは垂仁紀七年にみえているが、国造家との関係については触れていない。(鳥越憲三郎『出雲神話の誕生』講談社学術文庫)

 

天穂日命ではなく、オオナムチノミコトの末裔と称する一族もある

 

神別の地祇のグループに配置されなかった理由はわかりませんが、『新撰姓氏録』の「未定雑性」の中には、野実連と称する一族があります。

 

野実連 大穴牟遅命之後也 (左京区)

 

※ 『新撰姓氏録』には 「皇別」「神別」「諸蕃・未定雑姓」の3つに分類されています。

 

民俗学者である松岡静雄氏の見立てです。

 

大穴牟遅之後者と記注せられているのは頗る興味のあることで、師木二朝の御代に出京した出雲臣等は、振根が朝命を抗拒したことを憚(はばか)って、遠祖を天穂日命に託したが、本国に於ては依然として大己貴の後裔と称していたことが立證(りっしょう)せられるのである。(松岡静雄『紀記論究 建国篇 師木宮』 同文館 発行)

 

出雲国本国に於いて、大己貴の後裔と称していたかはわかりませんが、少なくとも京都の左京区では、オオナムチノミコトの末裔と称していたのです。

 

参考文献

 

  • 池田雅夫著 池田雅之・谷口公逸編 『野見宿禰と大和出雲』 彩流社
  • 信原克哉著『相撲の始祖 野見宿禰の墓屋』 ブックハウスHD

 

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